横田茂昭
よこた しげあき
Yokota Shigeaki
1969年5月1日生れ

岡山県出身
関西棋院所属。赤木一夫門下。1980年(第1回)小学生名人戦優勝。1981年(第2回)小学生名人戦準優勝。1983年入段。1995年九段。
棋風:力戦派。手厚く構え後半追い込む。
揮毫:
2005年11月(第49期)関西棋院第一位決定戦優勝(36歳)
2001年1月1日以降国際棋戦成績=1勝1敗(対韓国:0勝1敗、対中国:0勝0敗、対他:1勝0敗)
対局日棋戦名勝敗対戦相手
2007.04.16富士通杯第2回戦朴永訓九段(韓国)
2007.04.14富士通杯第1回戦スヴェトラナ・シックシナ初段(欧州)
2000.09.01三星火災杯第2回戦梁宰豪九段(韓国)
2000.08.30三星火災杯第1回戦梁建五段(韓国)
1999.09.07三星火災杯第1回戦姜至省三段(韓国)
関西棋院の情報 読売新聞「岡目八目」
写真(33歳) 写真(35歳)
【2014年1月27日 山陽新聞「滴一滴」】
プロとファンの交流の場に―。関西棋院の棋士・横田茂昭九段=浅口市出身=が月1回、岡山市で開く囲碁教室「横田道場」が今年、10年目に入った。有料だが丁寧な指導が好評で、年配者のほか、若者や女性の受講もあるという。横田九段は「一人でも多くの人に囲碁を身近に感じてもらえれば」と話している。
 カツン―。熟考を重ねる4人を相手に横田九段が右へ左へと立ち回り、石を打ち込む。岡山市中区中島の碁会所「ひがしおかやま囲碁サロン」で行われている道場の一場面だ。プロと多面打ちで対局したり、上達への注意点を習ったりできる。2005年に始まり、当初は同碁会所の会員だけを対象にわずか数人で行っていた。しかし、会員以外も参加できるようになった今では早々と定員16人が埋まり、翌月まで待たなければならないことも。受講者は初心者からアマ有段者まで幅広く、最近は20代の若者や女性もいるという。「囲碁の裾野が広がり、こちらもありがたい」と、同サロンの柘植春男席主。
 横田九段は05年に第49期関西棋院第一位になり、07年には七大タイトルの一つ碁聖に挑戦するなど、同棋院有数の実力者。気さくな人柄に加え、NHK囲碁講座で講師を務めたこともあり、指導力には定評がある。プロによる囲碁道場は強豪がひしめき合う関西圏では珍しくないが、岡山など地方ではまだ少ないという。横田九段は「岡山県が自分の囲碁の原点。これからも郷土のファンを大切にしていきたい」と話している。

【2007年6月28日 山陽新聞「滴一滴」】
囲碁のビッグタイトル碁聖戦の五番勝負が楽しみだ。挑むのは浅口市出身で関西棋院所属の横田茂昭九段である。今年38歳だが、早くから期待されていた。地道に培ってきた力を発揮してほしい。幼稚園の時に父親から碁の手ほどきを受け、小学5年で少年少女囲碁全国大会の初代王者となった。小学校卒業とともに大阪にある関西棋院の院生となり、14歳で入段を果たした。九段に昇段したのは26歳である。
プロへの道と昇段は順調だった。棋士に成り立てのころ面識があった。浅口市の自宅から大阪に通って腕を磨いていた姿を思い出す。30歳になって、生活の拠点を大阪に移した。ひたすら碁の研究を続けているという。華々しい活躍は伝えられなかったが、2005年に山陽新聞杯関西棋院第一位決定戦を制し、初めて第一位の座に就いた。岡山市西大寺のホテルでの対局でタイトルを獲得したから記憶している人も多いだろう。弾みがついたのか今回、碁聖への挑戦権を手に入れた。
棋聖、名人、本因坊、十段、天元、王座、碁聖の七大タイトルに岡山県出身者が挑むのは初めてというだけでなく、関西棋院としても橋本昌二九段が王座に就いて以来、26年ぶりの獲得を目指すことになる。応援にも力が入る。相手は東京・日本棋院の張栩碁聖だ。7月2日の第一局から目が離せない。

【「囲碁講座」(2004年12月号)】
4、5歳のとき、3、4段の親父から手ほどきを受ける。「父親に怒られるのはいやでしたが、碁がいやに思ったことはありません。親父と一緒に近所の碁会所にちょくちょく行っていました。ほとんど独学ですね」

小学4年(10歳)近所に住んでいた赤木一夫九段宅に毎週通い始める。「5子から始めて、1日1局、ずっと1対1で打って頂きました」。小学5年、小学生名人となる。「このころプロになりたいと思いました」。中学1年、院生になる。「日曜は院生の手合。水、木曜日は秒読みや記録係をするため、関西棋院に岡山から新幹線で通いました。学校もしっかり行って、試験も受けていたので毎日忙しかったですよ。授業はわからなくなると面白くなくなりますから。田舎だったので、サボる発想はなかったです。学校の理解もありました」

1983年6月入段。「数ヶ月前の前年、入段リーグで最後半目負けを喫してプロになりそこないました。それも半コウ勝負でコウ材が1コウ足らなくて、まさに涙を飲みました」。入段して両親からは「これからがたいへん」といわれましたが、僕がいないところでは喜んでいたようです。1995年、九段。「今は大阪に住んでいますが、1999年ころまで岡山から棋院に新幹線で1時間くらいかけて通っていました」