知念かおり
ちねん かおり
Chinen Kaori
1974年7月28日生れ

沖縄県平良市出身
時本壱門下。1993年入段。1996年二段。1997年三段。楊嘉源九段の奥様(1997年7月12日結婚)。2005年3月四段(勝ち数=50勝昇段)。2015年10月2日五段(勝ち数=70勝昇段)。2017年2月1日六段(賞金ランクで昇段)。
棋風:
揮毫:道
タイトル獲得数:9個(うち世界タイトル:0個)
2005年(8期)女流棋聖(30歳)
2004年(23期)女流本因坊(30歳)
2003年(6期)女流棋聖(28歳)
2002年(5期)女流棋聖(27歳)
2001年(4期)女流棋聖(26歳)
2000年(3期)女流棋聖(25歳)
1999年(18期)女流本因坊(25歳)
1998年(17期)女流本因坊(24歳)
1997年(16期)女流本因坊(23歳)
2001年1月1日以降国際棋戦成績=3勝1敗(対韓国:2勝0敗、対中国:1勝1敗、対他:0勝0敗)
対局日棋戦名勝敗対戦相手
2005.12.23正官庄杯戦内廼偉九段(中国)
2005.12.22正官庄杯戦李英信四段(韓国)
2005.12.21正官庄杯戦范蔚菁初段(中国)
2005.12.20正官庄杯戦李文真四段(韓国)
2000.10.01豪爵杯戦黎春華四段(中国)
2000.05.18日中女子新秀対抗戦黎春華四段(中国)
2000.05.17日中女子新秀対抗戦黎春華四段(中国)
2000.05.16日中女子新秀対抗戦黎春華四段(中国)
日本棋院の情報 スクスクのっぽくんの記事 宮古毎日新聞の記事
【2005年5月2日 朝日新聞「棋士快声」(荒谷一成)】
棋士と妻、母親の三役を掛け持ちしながら、女流本因坊と女流棋聖の二冠を保持する。小林泉美六段に代わり、女流トップの座に復活した。
「二冠は実力以上です。昨年初めに女流棋聖を失い、秋に女流本因坊を取り戻すまで無冠でした。一からやり直そうとしたのが、よかったのでしょう」。夫は台湾出身の楊嘉源九段。お腹に臨月の赤ちゃんがいた23歳で、初タイトルの女流本因坊を獲得。昨年は師匠の時本壱八段と名人戦の予選で対戦と、話題を提供し続けている。
若い頃は切れるところはすぐ切り、相手の大石を取れれば勝ち、取れなければボロ負け。攻め一直線の碁だったと苦笑する。「嘉源さんに教えてもらってバランスがよくなり、子育ての経験からか我慢強い碁になった気がします」。結婚と3人の子育てのおかげで棋風が変わり、強くなったわけだ。
家ではパソコンで研究する方が多い。紙の棋譜を見ながら碁盤に並べる今までのやり方だと、次の手がすぐわかってしまう。「パソコンだと次の手を考える利点があります」
小学2年の長女はのんびり屋、5歳の長男はゲーム大好き、2歳の次女は負けず嫌いで棋士向きという。「考える人間に育てたいのでテレビは禁止、本を読み聞かせて、書くことを勧めています」
沖縄県宮古島で育ち、15歳で単身上京。子育て第一で東京・池袋近くのマンションから1年前、緑が多い郊外の八王子に引っ越した。

【「囲碁講座」2005年2月号】
小学2年夏休み、父から姉、兄と一緒に碁の手ほどきを受ける。姉は勝負事が好きではなく、どうやって父から逃げようかと考えていたよう。「兄弟の中では私一人だけが好きでした」。家には碁盤が3面あって、お客さんがよくきて打っていました。
小学6年夏から3月まで碁の勉強のために沖縄本島で8ヶ月、親元を離れた。その時大阪でプロを目指さないかという話があり、沖縄の新聞にまで載ってしまった。「でもホームシックになって、どうしても宮古島に帰りたくて」、大阪行きはなくなった。この頃は「プロになりたいというより、強くなりたいという気持ちが強かったのです」
中学3年の時、日本棋院の幕張センター(院生合宿所)がオープンしたので、卒業を待たず上京した。「もう15歳だったので、(父が)早い方がいいといって。今ならわかりますが、後半年だったので、宮古島で卒業したかった」
中学を卒業して時本壱先生宅で内弟子になる。1993年入段。そして独立。看護士の姉と一緒に暮らす。1997年、楊嘉源九段と結婚。第16期女流本因坊位獲得。長女がお腹にいる時に挑戦者となり、話題になる。

知念さんを取材し、感心したのはその人柄だ。常に謙虚で、慢心とは無縁の人という印象を受けた。日本棋院会館で第2局を終えた時も、帰る間際に自ら記者の控室まで足を運んで丁寧にあいさつをしていた。知念さんは一昨年、本紙夕刊のコラム「南風」で、どんなに嫌なことがあっても前向きに笑顔を絶やさない人になるようにと母親からいつも言われていたと書いている。その教えを忠実に守っているのだろう。