岩本薫
いわもと かおる
Iwamoto Kaoru
1902年2月5日生れ

島根県益田市出身
9歳で囲碁を始める。大正2年広瀬平治郎八段に入門。大正6年入段、8年二段、9年三段、11年四段、14年五段、15年六段、昭和16年七段、23年八段に推挙、42年九段、58年4月引退。1999年11月29日没(肺炎)。享年97歳。
1929年碁界から退きブラジルに移住、1931年帰国碁界復帰。1945年8月6日広島市郊外で、時の本因坊橋本宇太郎氏に第3期本因坊戦の第2局を打っていた時に原爆の爆風を受ける(原爆下の対局)。1945年日本棋院が空襲焼失後は自宅を仮事務所にして棋院新館復興に尽力した。、1946年に本因坊位を獲得、本因坊薫和と名乗りる。1948年には当時最高の八段に昇進するとともに日本棋院理事長に就任した。1954年中央会館長を歴任。1961年アメリカで約1年半滞在して囲碁普及に携わって以来一貫して囲碁の海外普及に情熱を燃やしていた。私財(5億3千万円といわれる)を日本棋院に寄付、岩本基金が創設され、サンパウロ、アムステルダム、シアトル、ニューヨークに囲碁会館が建てられた。1967年紫綬褒章、1972年大倉賞、1972年勲三等瑞宝章受賞、1987年度名誉東京都民、1989年棋道賞「国際賞」。
棋風:中盤の戦いに強く、「豆まき碁」といわれた。
揮毫:
1955年(第2期)NHK杯戦優勝(53歳)
1947年(第4期)本因坊(45歳)
1945年(第3期)本因坊(43歳):橋本昭宇本因坊と3勝3敗(8月広島で原爆対局を体験)、翌1946年に本因坊決定三番勝負で2連勝して本因坊就位。
日本棋院の情報 益田市立歴史民俗資料館常設展「郷土の偉人 岩本薫和」 益田市教育委員会 ウィキペディア百科事典の情報
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【2008年1月24日 読売新聞(福屋和憲)】
カヤでできたその碁盤はあめ色に輝き、歴史を感じさせる。碁盤のかつての持ち主は終戦直後に本因坊となった岩本薫九段(1902-1999)。益田が生んだ島根県出身でただ1人のタイトルホルダーだ。厚さ4.5寸(約13.5センチ)と、タイトル戦に使用するにはやや薄いが、遺品を大切に守ってきた地元の思いをくんで、第32期棋聖戦七番勝負第2局の対局者、山下敬吾棋聖と趙治勲十段が使用を快諾した。使用を要請した日本棋院益田支部の村木功敬支部長(78)は「地元にとって素晴らしい記念になる」と喜ぶ。
岩本九段は戦前から戦後にかけて一時代を築いた。1946年、第3期本因坊戦で橋本宇太郎本因坊からタイトルを奪って2期務め「薫和(くんわ)」と号した。盤上で豆をまくようにバラバラに打たれた碁石が中盤から有機的に結びつく、その打ちようは「豆まき碁」と称された。日本棋院理事長も務め、理事長を退いた後も囲碁の海外普及に情熱を燃やした。私財をなげうってブラジル、オランダ、アメリカに建設した囲碁センターは、海外普及の拠点になっている。97歳で死去した後、遺族や門下生が、碁盤や日記や棋譜などを益田市に寄贈した。遺品は市歴史民俗資料館に展示されている。
益田市高津町の住宅街の一角に高さ約1メートルの石碑がある。岩本薫九段の生誕地を示す石碑。銘文は「岩本薫和本因坊生誕之地」。出身地の高津町の住民でつくる「高津の歴史と文化を考える会」(佐野寿太郎会長)が2006年、岩本九段の功績をたたえて建てたものだ。以前は数百メートル離れた別の場所が生誕地とされていた。しかし、建立前の調査で、地元のお年寄りの話から疑義が浮上。岩本九段の父は駐在さんで、何度も住所を変えていた。会員らは手分けして土地台帳や戸籍謄本を調べて、半年がかりで生誕地を特定した。同会の林正副会長(75)は語る。「郷土が生んだ名棋士を語り継いできた住民の熱意が、最高のタイトル戦の誘致につながったのでしょう」

【2004年3月17日 毎日新聞島根(神門稔)】
◇足跡を知る貴重な資料
益田市出身で日本棋院理事長を務めた元本因坊・岩本薫和(本名薫、1902〜1999)の遺品の日記が市立歴史民俗資料館で公開・展示されている。1945年8月6日は広島市郊外で当時の本因坊、橋本宇太郎に挑戦。原爆下の本因坊戦として知られる。日記は「B29の強烈な光線で爆風が起りガラスなど飛んだので其後片づけが大変だった」などと記している。
日記は1923年1月〜1935年12月と1937年1月〜1957年12月の計34冊。「薫和の故郷、益田市で保存してほしい」と昨秋、手帳19冊と一緒に日本棋院から市に寄贈された。いずれも遺族が寄贈し同棋院が保管していた。
開館して20年になる資料館は、特設コーナーを設け日記、手帳を年代順に整理して並べ、原爆対局の1945年8月6日の日記については開いて展示。別の展示コーナーには、これまでに日本棋院や遺族から寄贈のあった自筆の棋譜、愛用の碁盤や作家の川端康成から届いた昇段の礼状などを展示ししている。
日記を書くことが日課だったという薫和。原爆対局の第3期本因坊戦第2局3日目は2日目と同様、広島市中心部で行う予定だったが、危険という情報が入り、急きょ郊外の五日市に会場を移して行われた。1945年8月6日付の日記は本文の前に「広島 敵機攻撃」と書いて衝撃を受けた気持ちを強調。さらに「広島市中の方に火の手が上り」などと続けている。同8日付は「新型爆弾を使用したらしく全体では約20万人の死傷があったとの事」とも。6〜8日は知人の安否を気遣う記述もある。
薫和は美濃郡高津村(現益田市高津町)生まれ。9歳で囲碁を始め、11歳の時に上京し広瀬平治郎六段の内弟子となり、1917年に入段を果たした。原爆対局の結果は3勝3敗で本因坊は日本棋院預かりとなり、翌年の再戦で勝ち、本因坊位を獲得し本因坊薫和を名乗った。
囲碁愛好家で薫和の研究をしている益田市乙吉町、薬剤師、大庭信行さん(32)は「世界に目を向け囲碁の海外普及に尽くした功績は大きい。石見は囲碁が盛んで、日記は薫和の足跡を知る貴重な資料」と話している。

【1995年8月14日 産経新聞「編集余話」(加藤洋二)】
海外に囲碁会館が続々誕生している。サンパウロ、アムステルダムはオープンし、シアトル、ニューヨークが準備中だ。建設費の出所は「岩本基金」。岩本薫九段が不動産を売却、五億円余を寄贈して始まった。
岩本九段が囲碁国際化を夢みるようになったのは昭和の初めだった。日本棋院の創設に尽力した大倉喜七郎氏に導かれてというから話は古い。近年は頻繁に海外に出掛け、国際化の先頭を走ってきた。
今年九十三歳。飛行機に乗り込むと革靴からスニーカーに履きかえて長旅に備えるなど、その姿はかくしゃくたるもの。昨年、十段戦バンコク対局に参加した。普及活動のあいま、四〇度近い猛暑の中、暁の寺をはじめ観光も同行者なみにこなしたのには驚いた。

【1987年5月11-15日 読売新聞東京夕刊文化欄(藤井正義記者)】
[囲碁を世界に 岩本薫さんに聞く](1)“男の意地”で私財投入(連載)
日本囲碁界最長老の岩本薫さん。大正、昭和の二代、七十年にわたって碁を打ち続け一時代を画した。盤上に石をパラパラ打つことから、棋風についたニックネームが“豆まき碁”。昭和の初めには碁界を退き、ブラジルに移住したこともある。八十五歳のいま、私財まで投じて海外普及に情熱を燃やしている岩本さんに話を聞いた。
    ◇
 ――まず、日本棋院に五億三千万円相当の土地家屋を寄付されたお話から伺いましょうか。
 囲碁を海外に普及する、というのが私の念願ですから、そのために使っていただこうと。
 ――効果的に普及するためのうまい方法がありますか?
 何度か海外普及をした私の経験では、まず第一に、有望な都市に囲碁センターを設置すること、第二に、そのセンターに、若手棋士が一年とか二年、長期滞在して指導すれば、囲碁人口は飛躍的に増えるでしょう。外国の人たちとの話し合いでもそういう結論が出ています。だからそのセンターの建設資金にしていただくんです。とりあえずは北アメリカのサンフランシスコ、南アメリカのサンパウロが候補地です。
 ――どうして私財を注ぎ込まなければならないのか、という気がするんですが……。
 男の意地もあるんです。
 四年前にね、日本棋院の理事会としてはサンパウロに囲碁センター建設を決めたんです。各方面の援助がなければ出来ませんので、稲山嘉寛日本棋院総裁にお願いに上がったんですが「いま中国に囲碁会館を建設中だからもう少し待ちなさい」と言われましてね。中国の方は昨年夏に完成したんですが、今度は円高で、寄付だって集めにくい。色部義明理事長にも「少し見送ろうじゃないか」と言われて……。
 ――せっぱつまっての私財投入ですか。
 理事会で決定したあと、私もブラジルのサンパウロに出掛けて囲碁センター建設を約束をしてますんでね。男としてやめるわけにはいかん。サンパウロでは、すでに日本の建設会社の現地出張所が、五百平方メートル余りの土地を手当てしてますしね、あと一億二、三千万円余りあれば建物は出来る。私は、自分の土地建物なんて一億円ぐらいにしかならないと思っていたもんでね。それが専門家に評価してもらうと五億だなんていうもんだからおろおろしちゃった。碁打ちがいかに世間知らずかという好例みたいなもんです。個人で売ったんじゃ税金がかかる。そこで日本棋院に不動産を寄付し、財団法人の日本棋院の手でやっていただけばより有効に使っていただけますからね。
 ――寄贈された不動産は、ご自宅ではないんでしょ?
 外国人の宿泊施設、弟子たちとの研究会、アマチュアの皆さんの囲碁サロンなどに使っていたんです。JR電の恵比寿駅から歩いて十五分ぐらいかな。
 私は海外普及のため、何度か外国で生活していますが、その間、しばしば家庭に泊めてもらった。ところが、ほとんどが泊めてくれるだけで、食事の世話などはしてくれない。欧米人はプライバシーを守る、なんて言われますが、これだと確かに個人のプライバシーが非常によく守られる。日本だと、家族同様の扱いをしようとするから、一日や二日ならともかく、長く続いたら家庭が破壊されちゃう。そこでこれは外人を泊める施設を作らなければならない、と思ったんです。昭和三十六年から七年にかけて、一年半余りにわたってアメリカ、ヨーロッパを回ったときに痛切に感じました。
 ――それで帰国後すぐに?
 いえいえお金がなくて。百四十五平方メートルの土地を一千万円で買ったのが四十二年、鉄筋四階、約三百平方メートルの建物が出来たのは四十四年夏です。千七百万円ほどかかりました。四階が宿泊施設で、お金のない若い人は、無料で泊めて上げました。弟子の河野君(征夫四段)がまだ独身で、管理人として住み込んでくれてね。もっとも、河野君にしたって部屋のカギを渡すだけ。何時に帰って来ようと一向かまわないわけですよ。
 ――そんな施設が無くなったら、これから日本にやってくる外人たちが困るんじゃないですか?
 完成以来二十年近く、もう役目は果たしたでしょう。それに時代も変わりました。いま日本に勉強に来る外国人は、宿泊施設の準備もきちんとして来るようです。弟子も曲君(励起九段)はじめ、みんな一人立ちして立派にやっている。応援して下さったアマの皆さんも、私の海外普及にかける情熱を認めて下さってます。(藤井 正義記者)

 岩本 薫氏(いわもと・かおる)明治35年島根県生まれ。大正2年広瀬平治郎六段の内弟子になり6年入段。四段時代の昭和4年日本棋院を脱退してブラジルに移住したが、6年事業をあきらめて帰国、棋士に逆戻り。20年広島市二日市町での第三期本因坊戦挑戦手合第二局対局中に原爆の洗礼を浴びる。21年第三期、22年第四期本因坊。42年九段、紫綬褒章受章。48年勲三等瑞宝章受章。58年引退、この間、日本棋院理事長、副理事長を務める。

[囲碁を世界に 岩本薫さんに聞く](2)修業四年半で待望の入段(連載)
――私財を投じてまで海外普及を、という動機は何だったんでしょう。
 大倉財閥の当主だった大倉喜七郎さんの影響ですね。
 日本棋院が創立されるまでの碁界は色々派閥があっていがみ合っていたもんです。それが関東大震災を機に、大倉さんが「これまでの行きがかりを捨てて大同団結し、碁を世界に広めるなら全面的に援助をしよう」ということで、いまの日本棋院が出来たんですが、大倉さんは芸術にも深い関心を持っておられた。音楽もお好きでしたし、漢詩や書もたんのうでした。「碁打ちといえども、これからは教養がなければならない」と、私たち若い連中は随分教育されたし面倒も見てもらった。
 身近にいる間に、大倉さんが碁を世界に広めることに熱意を燃やしておられることが私の頭にもしみ込んだんですね。当時は気付いていなかったんですが、大倉さんの考えは、そのうちに私の心の中で芽生えてきて、やがて海外に目が向くようになって来たんです。
 ――やはり何かきっかけがあったんでしょう。
 三十四年、最初にアメリカへ二か月ほど普及に行ったとき、碁好きのアメリカ人から「日本人は戦争に負けたとはいえ、独自の優れた文化をいっぱい持っている。決して肩身の狭い思いをする必要はない。ことに碁を、なぜもっと積極的にアメリカやヨーロッパ、いや世界に広めようとしないのか」と言われてね。敗戦後十数年、文化や娯楽など、何から何までアメリカ一辺倒のころだけに私は心を打たれました。
 ――岩本さん自身の碁とのつき合いはいつごろからだったんですか?
 最初はオヤジです。元は島根県で巡査を拝命していたんですが、私が生まれたころは機織り業を、そして四歳のときには、韓国の釜山に移住して米屋をやってました。
 たまたま私が九歳のとき大病をして病院から退院後、自宅療養しているときに時間をもて余したんでしょう。打ち方を教えてくれたんです。しかし、いま思えば弱い碁で、七、八級ぐらいだったんじゃないかな。すぐに互先で勝てるようになったから。
 近所に碁好きがたくさんいて「なかなか強い子がいる」と言われるようになり、町の碁会所に通い、邦字新聞なんかにも書かれました。
 ――勝つとほめられ、ほめてもらうためにもっと努力する、というおきまりのパターン?
 十一歳になったばかりのとき、高部道平五段が中国への囲碁行脚の途中で釜山に寄られ、六子で打ってもらったんです。勝てませんでしたが「専門に修業したらどうか」とすすめられ、なかなか首を振らない父を説き伏せて、大正二年の四月に広瀬平治郎六段に入門して内弟子になったんです。二男だったから、父も最後には許してくれたんでしょう。
 もっとも私は、碁打ちになろうというよりも、東京へ行けば面白いだろうな、という気持ちの方が強かったと思いますよ。なにしろ小学校の六年生です。実力も、アマチュアの初段ぐらいだったじゃないですか。
 ――そこで水くみ、ぞうきんがけをやらされたわけですね。
 玄関番から庭の草むしり、廊下のぞうきんがけ、何でもやらされました。便所そうじだけはお手伝いさんがやってくれた。
 ――いまでも内弟子をとっている棋士がいますが、昔とはかなり違うようですね。
 そりゃ時代が違います。昔は厳しくしつける、でしたが、今は大切に預かる、でしょう。厳しくしたら逃げ出しちゃうんじゃないかな。私たちは、ぼんやりしていると、キセルでピシッとたたかれたもんです。子供ですからつらかった。先生の奥さんがいい人でね。陰になり、ひなたになって私たちをかばって下さった。奥さんがいなかったら、先生の厳しさ、熱心さに耐え切れず、飛び出していたでしょう。
 ――当時はどこでもそうですか?
 大同小異でしょう。そのかわり師匠は、食べる物から着る物、小遣い銭など衣食住一切の面倒を見てくれる。弟子はその恩返しに、三段になったら向こう三年間は師匠にお礼奉公する。この三年間は、対局料からけいこ料、原稿料など一切の収入を全部先生に渡す。これが約束で、江戸時代から続いて来た慣習なんですね。
 早く三段になろうと思ったもんです。三段になってから三年の間ご恩返しをして、独立してから羽を伸ばそう、と頑張りましたよ。
 ――そして待望の入段が大正六年、十五歳、四年半の辛抱でしたね。
 我々のころの入段、昇段は家元の推薦制で、私の場合は少し弱かったが大目に見てもらったようです。現在の入段は、入段試験の上位から何人、という具合に自動的に決まるような仕組みですから情実に左右されることはありませんが、昔は色々あったようです。(藤井 正義記者)

[囲碁を世界に 岩本薫さんに聞く](3)青春の夢 ブラジル渡航(連載)
――大正十四年に五段、翌十五年には六段と昇段して、棋士としての地位も着々と固まり、昭和二年には結婚までされたというのに、それをほうり出してブラジルに行かれたんでしたね。
 本因坊秀哉名人も十八歳のときにアメリカに渡り、一旗揚げようとされたそうですが、私の場合も、再び帰らぬ青春を、もっと大きな目的に向かってささげたい、という青年特有の客気ですね。それに六段まで、あまり苦労せずに上がって来たので、碁を安易に考える気持ちがあったのかも知れません。
 当時は新聞棋戦も少なかったし、収入の大半はアマチュア相手のおけいこでしたから、お客さんのご機嫌を取ることも嫌だった。「男児一生、こんなことをしていていいのか」などと生意気に悩んだりしてね。妻との結婚の条件は、ブラジル行きについて来てくれることでした。
 ――棋士の社会的な地位も低かったんでしょうね。
 一般の人からは、一種の遊び人みたいに見られていましたよ。私が故郷の島根県の旅館でお客さんと碁を打っていると巡査が来て「なにをしてるんだ」と聞くから「碁を打っている」と答えると「そんな道楽をしているより、なにかまじめな商売でもしたらどうか、まともな体をしているんだから」と注意されましたからね。むろん悪意やからかっているのではなく、親切心で言ってくれているんです。碁そのものがまだ認識されていなかった時代ですから無理もありません。
 ――ブラジルに目をつけられた理由は?
 日本人の海外移住は明治元年、百五十三人がハワイに渡航したのが始まりだそうですが、ブラジル移民は明治四十一年からなんですね。関東大震災後、日本政府も移民政策に本格的に取り組んだようで、町に「雄飛せよ! 南米の新天地」といったポスターが張り出されていましたから、そんなことがきっかけだったのでしょう。
 ――ブラジルでは何をおやりになるつもりだったのですか?
 コーヒー栽培です。土地を五十町歩ぐらい買って、徐々に増やしていくつもりでした。そのために大正十三年から昭和三年までに七千二百円をためましたよ。もり・かけ十銭、カレーライス二十銭、うなぎどんぶり四十五銭、新宿武蔵野館の入場料六十銭、大学出の初任給が五十円前後の時代ですから、現在の貨幣価値にすると五千倍として三千五百万円というところでしょうか。後援者に恵まれていたということでしょう。
 移民のほとんどは“契約移民”と言って、移民会社から借金して移住はしたものの、原生林や荒野、言語や習慣の違い、過酷な労働のために挫折して帰国のための旅費もなく“棄民”とさえ言われた人たちもいましたから、それに比べれば、本当に幸せでした。日本にいる間に色々なコネで、ブラジルの方にも便宜を図っていただけるようお願いもしていましたし。
 ――いまならリオデジャネイロまでジャンボ機で二十数時間ですが、当時は船ですから時間もかかったでしょうね。
 昭和四年五月十一日、大阪商船のサントス丸で神戸港を出港して、サントスに着いたのは六月二十六日、四十七日目でした。  香港、シンガポール、サイゴン、セイロン島のコロンボ、南アフリカのダーバン、ケープタウン、そしてあこがれのブラジルのリオデジャネイロと寄港してサントスに着いたんですが、上陸を許されたのは香港、シンガポール、ダーバン、ケープタウンの四港だけでした。
 また、船には約七百人が乗り込んだんですが、航海中に十一人が亡くなりましたよ。赤道付近では気温が四十度を超しましたし……。いまみたいにクーラーがあるわけじゃなし、船内は焦熱地獄ですから……。結婚の翌年には長男も誕生していたので、母と子供も一緒に、と思ったんですが、調べて見ると無理らしいんで家内と二人で乗ったんです。
 亡くなった人は納棺して鉛と砂袋のオモリをつけ、形ばかりの回向をして海中に沈める、いわゆる水葬ですが、航海中の死ほど無残なものはない、息子を日本に残して来てよかった、とつくづく思いましたよ。(藤井 正義記者)

[囲碁を世界に 岩本薫さんに聞く](4)「空白の二年間」が響く(連載)
――ブラジルから撤退された原因はなんだったんですか?
 第一の原因は、嫁いでいた姉の死です。昭和六年一月六日、懐かしい日本から手紙が届いたんですが、それによると、昭和五年の十一月七日に亡くなった、とありました。姉の夫は、東京の原宿で質屋をしていたんですが、姉が死ねば、姉の家と私とは他人の仲です。この姉に、母と長男を預けてのブラジル移住でしたから、どうしても一度帰国して、あとあとのことを整理しておかなければならないと思った。姉の夫からも「帰国して欲しい」と言って来ていましたし……。
 第二は妻の病気です。ブラジルに着いてから半年ほどたってから具合が悪くなった。アニューマスで土と親しむ生活をしていたのですが、サンパウロへ出掛けて医者に診てもらったらバセドー氏病だという。以来、アニューマスとサンパウロの間を何度も往復しました。家財道具一切を持って動いたし、医者の治療費も高い。心細くなっていたときでもありました。
 ――雄図むなしくですか。
 一月七日に家内と二人でサントスに行き、再び帰国のためにサントス丸に乗ったんです。来たときとは逆に、ビクトリア、ニューオーリンズ、ヒューストン、パナマを通って太平洋、そしてロサンゼルスを回り、横浜に着いたのは三月十六日、約七十日の旅でした。  私としては戻るつもりで、日本を出るとき持って行った七千二百円のうち、四千円をブラジルの知人に預けたくらいです。おかげで横浜に着いたときにはたった五十円しか残っていませんでした。それに四千円も、預けた知人に使い込まれてしまって返ってきませんでした。もっとも、私のブラジル再訪も、賛成する人がいなくてあきらめましたから……。
 ――帰り新参で日本棋院に復帰されたわけですが、ブラジルでの二年間のブランクは?
 空白の傷は十年続いたといっていいでしょう。ようやく元に戻ったな、と感じたのは昭和十七、八年ごろです。それまでは木谷さん(実七段)に負け、橋本さん(宇太郎七段)にもよくないし、前田さん(陳爾六段)にも負け越していましたが、勝てるようになってきましたからね。
 やはり物事には旬(しゅん)というものがあって、旬のときに伸びておかないとだめですね。私の場合、伸び盛りのときに頭が他の方に行ったのですから、これは取り返しのつかぬ損失でしょう。ちょうどタケノコの出盛りのときに雨が降らず太陽にあたったようなものです。碁ばっかりじゃありません。努力は若いうちです。年を取ってからの勉強など、自分の衰えを、いかにカバーするかというぐらいのもんです。
 そうはいっても、これは結果論ですから、私がブラジルに行かずに東京で精進していても、いまと同じだったかもしれません。
 ――復調されたころは暗い時代でしたね。
 碁は健全な娯楽ですが、時局柄、単に娯楽のための娯楽であってはいけない。傷病兵士や産業戦士に奉仕しなければならない、というので将棋と一緒になり「棋道報国会」というのを結成しましてね、随分慰問して歩いたもんです。結成が太平洋戦争が始まる直前の昭和十六年十月四日でした。
 碁打ちにも次々に召集令状が来る。戦争の激化に伴って新聞は全部タブロイド判になり、読売新聞を除いて、全部囲碁欄は廃止されました。新聞社の契約金も減らされますしね。空襲が激しくなるにつれてお客さんも疎開するしで、けいこも無くなる。それでも細々と手合(対局)だけは続けていました。
 ――そんな中で第三期本因坊戦挑戦者になられたのでした。
 歴史に“もし”はない、と言われますが、本因坊戦の挑戦者にならなかったら、碁の海外普及に熱を上げる今日の私はなかったんじゃないかと思います。(藤井 正義記者)

[囲碁を世界に 岩本薫さんに聞く](5)「被爆」境に普及に献身(連載)
――本因坊戦の挑戦手合の最中に原爆の洗礼を受けられたのでしたね。
 挑戦手合の二局目でした。広島に疎開しておられた瀬越先生(八段)が骨を折って下さって、日本棋院の広島支部長さんの自宅で打つことになったんです。原爆の爆心地から、歩いてほんの二、三分のところです。
 一局目は昭和二十年の七月二十四日から三日間にわたって打った。二局目も八月四日から三日間、同じ場所で打つことになっていたんですが、警察の方から「危険だからいかん」というクレームがついて、広島から十キロほどの五日市に対局場が変更されたんです。
 三日目の八月六日に原爆が投下された。午前八時すぎに二日目までの手順を並べ終わったところにいきなりピカッと光った。それから間もなく、ドカンという聞いたこともないようなすごい音がして、やがて爆風が来て障子やふすまは倒れ、窓ガラスは粉々になってしまった。
 なにが何だかわからず、まもなく部屋を掃除して対局は続けたんですが、午後になると、けが人が広島から帰って来た。見るも無残、まるで地獄絵を見ているようでした。ラジオでは「新型爆弾」としか発表しませんでしたが、二、三日して橋本さん(宇太郎本因坊)と一緒に、広島市の被爆跡を歩いてびっくりしました。死屍累々(ししるいるい)でした。すさまじかった。これは、実際に目にしたものでないと、その悲惨さはわからないでしょう。
 ――広島市内の対局場だったら当然……。
 最初に対局場を貸して下さった支部長さんも原爆の犠牲になったぐらいですから、やはり私たちもだめだったでしょう。橋本さんは随分下痢などに悩まされたそうですが、私の方はなんともありませんでした。
 ――そんな危険な状態で、どうして碁を?
 私たちは棋士である、という意識、棋士である以上、自分の都合や周囲の環境が悪いから、というような理由で対局を避けるわけにはいかん、打つのが責任でも義務でもある、というような考えだったんでしょう。しかし一局目は機銃掃射を浴びたり、二局目は原子爆弾、とても碁一筋というような純粋な気持ちにはなれませんでした。
 しかし、この事件で私の人生観は変わったと思います。一度死んだのだ、どうせ死んだのなら、これからは碁界のために尽くそう、そんな気持ちになりました。人間、死生のちまたをくぐると、人生観も変わるようです。
 ――それで「囲碁を世界に」というわけですね。
 海外普及は前にもお話ししたように、昭和三十四年、碁好きのアメリカ人の一言からですが、もうヨーロッパと南米、それにアメリカにそれぞれ七、八回行ってますね。昭和三十六年から三十七年にかけてはアメリカで一年間、ヨーロッパに四か月滞在しました。
 ――アメリカはニューヨークでしたね。一年間はどんな生活でした?
 午前中は会話の勉強、一度家に帰って昼食のあと昼寝、夕食を済ませて日本クラブに行き、十時か十一時ごろまでけいこ、というスケジュールです。当時、一局打って五ドル、サイマルテニアス(Simultaneous)という多面打ちが二ドル。土曜、日曜は地方出張が多かったんですが、これが一日三十ドル、これで月六百ドル前後になりました。私は末の娘をお手伝いさん代わりに連れて行ったんですが、娘はコロンビア大学に通いまして、これの学費やアパート代まで含めて月三百ドルから四百ドルあれば暮らせる。一年で二千ドルの貯金が出来て、これがヨーロッパを回って帰る飛行機代になりました。
 ――伺ってみると随分簡単ですが……。
 私の場合は、ニューヨークの日本クラブを無償で提供してもらったのでうまくいったのですが、今後の絶対条件として、道場だけは優先的に作らなければならないと思いましたね。以来、囲碁センター作りを提唱して来たんです。
 一か月や二か月、スポンサーつきで、観光を兼ねて回って来ても、種をまいたことにはなるかもしれないが、根をおろしたとは言えない。一年間、けいこで生活出来ることがわかって、とてもうれしかったのを覚えています。
 ――日本棋院に寄贈された五億三千万円で拍車がかかるでしょうね。
 飛躍的に伸びてほしいですね。チェスをやったことのある人が碁をやると「こんな面白いものはない」と言う。プロの世界はアマチュアがいるからこそ成り立っているのですから、プロはアマにお返しをしなければならない。碁を世界の碁にするため、私は余生をささげる覚悟です。(おわり)