橋本昌二
はしもと しょうじ
Hashimoto Shoji

1935年4月18日生れ

兵庫県出身
関西棋院所属。父・国三郎に囲碁の手ほどきを受ける。1947年5月入段(12歳1ヶ月)。1958年12月九段。94年から2期4年間、関西棋院の理事長に就任し、後に相談役を務めた。通算成績は1037勝631敗。2009年11月11日まで対局していた。2009年12月2日死亡。
棋風:深い読みの力戦型、長考派で気迫あふれる棋風から「重戦車」の異名を取った。対局中に「参った」などとぼやくことから「泣きの橋本」と呼ばれた。
揮毫:
タイトル獲得数:19個(うち世界タイトル:0個)
対局日棋戦名年齢コメント
1990年関西棋院第一位決定戦54歳
1988年関西棋院第一位決定戦53歳
1985年(第32期)NHK杯戦優勝50歳
1981年(第29期)王座46歳
1980年(第27期)NHK杯戦優勝45歳
1979年関西棋院第一位決定戦44歳関西棋院名誉第一位の称号獲得
1978年関西棋院第一位決定戦43歳
1975年(第7期)早碁選手権戦優勝40歳
1974年(第12期)十段39歳
1974年関西棋院第一位決定戦39歳
1973年関西棋院第一位決定戦38歳
1972年関西棋院第一位決定戦37歳
1971年関西棋院第一位決定戦36歳
1970年関西棋院第一位決定戦35歳
1967年関西棋院第一位決定戦32歳
1967年(第14期)NHK杯戦優勝32歳
1966年関西棋院第一位決定戦31歳
1965年関西棋院第一位決定戦30歳
1959年(第7期)王座24歳
関西棋院の情報 ウィキペディア百科事典の情報
写真(40代の頃) 写真(70代の頃) 
【2010年4月4日 毎日新聞東京朝刊「悼む」(山村英樹)】
◇囲碁界の復興象徴−−囲碁棋士九段・元関西棋院理事長、橋本昌二(はしもと・しょうじ)さん=虚血性心筋梗塞(こうそく)のため2009年12月2日死去・74歳
2010年2月27日、大阪市内のホテルで開かれた「語らう会」には、棋士、ファン、関係者ら約300人が集まった。橋本九段は大阪市に本拠がある関西棋院の所属だが、会には日本棋院の大竹英雄理事長、石井邦生九段(井山裕太名人の師匠)、羽根泰正九段(直樹本因坊の父)も出席し、思い出話に花を咲かせた。
「闘将」だった。父の橋本国三郎七段が囲碁の普及にあたっていた台湾で生まれた。その父から囲碁を教わり、兵庫県に引き揚げた翌年の1947年にプロ棋士初段になった。終戦直後に登場した「天才少年」は、囲碁界の復興を象徴する存在でもあった。1950年、日本棋院が分裂して橋本宇太郎(当時の本因坊昭宇)率いる関西棋院に加わり、「大橋本」「小橋本」は、打倒・東京の先陣を切って活躍した。1958年、当時のスピード記録で最高位の九段へ昇段、1959年には王座戦で優勝し、昭和生まれの棋士の初優勝となった。
「泣きの橋本」のニックネームがあるほど、対局中の嘆きぶりはよく知られた。必ずしも形勢が悪い時ばかりではないが、それだけ対局に心をこめていた。長考派で知られたが、早碁にも強かった。二十三世本因坊坂田栄寿ら、東京の棋士には激しい闘志を燃やした。晩年の愛唱歌は「宗右衛門町ブルース」だったそうで、いかにも関西を愛した九段らしい。出席した井山名人をはじめ、結城聡九段ら関西勢が囲碁界を盛り上げる今日。九段も後輩たちの活躍を見守って囲碁界を去ったのだろう。2009年は藤沢秀行名誉棋聖をはじめ、梶原武雄九段、安倍吉輝九段ら個性派が次々と亡くなった年だった。